LOGIN「きつく見えますか」
「きついです。でも、これくらいでいいと思います」 その答えなら、受け取れた。 怒っている。 そうだ。私は怒っている。 怖いだけではない。置かれた場所で笑うことを求められてきた分だけ、ちゃんと怒っている。 カーソルが、文末で点滅していた。「送ります」 送信ボタンを押す。 送信後、肩の力が一気に抜けた。 康生からの返信は、その日は来なかった。 代わりに、夕方までに九条康隆側の代理人から正式な受諾文が届いた。 面会場所は九条本邸の応接室。録音を認める。双方の代理人同席を認める。面会は一時間。書類への署名を求めない。 葵についての記述は、なかった。 その空白が、かえって重かった。「葵さんの名前が、一度も出てません」 私は受諾文を見たまま言った。「意図的でしょう」「隠してるんでしょうか」「隠してるのか、守ってるのか。今はまだ判断できません」「あのドレス、覚えていたんですね」 律はストールを椅子の背に掛けながら頷いた。「あなたが選んだ時の顔を、覚えていました」 私は布に触れた。似合うと言われるより、その時の私を見ていたと知る方が、落ち着かなかった。「……明日、持っていきます」 肩に掛けてみると、律の視線が私の顔へ戻った。感想を待ってしまい、目を逸らせない。「やはり、その色が好きです。あなたが着ていると」「言い直さなくても、分かります」 分かったからこそ恥ずかしくて、私はストールの端を折った。律が帰ろうと車輪へ手を掛ける。「もう少し、いてもらえますか。資料の確認は終わったので」「私も、まだ帰りたくありませんでした」 彼がそう答えたので、隣の椅子を引いた。明日の不安が消えたわけではない。それでも、この時間まで九条家のことで埋めなくていいのだと思えた。 その夜も、深くは眠れなかった。 天井の木目を見ているうちに、夜が薄くなった。眠れなかったというより、眠る場所を身体が忘れている感じだった。九条の名も、朝霧の名も、如月の名も、枕元ではただの音にならなかった。 翌日の午後、私は律と相良さん、榊家の法務担当とともに九条本邸へ向かった。 車窓の外で、街の景色が少しずつ広くなる。高い塀のある家が増え、古い樹木が道路へ影を落としていた。九条本邸は、その奥にあった。 門は黒く、必要以上に大きくはない。ただ、近づくほどに、ここから先は勝手に入るなと言われているように思えた。 車が止まる。 相良さんが先に降り、警備員と短く言葉を交わす。身分証の確認、事前登録、持ち込み機器の申告。録音機器についても、封筒入りの同意書と照合された。 手続きは丁寧だった。 確認が増えるたび、自分が手続きの対象になっていく感覚がした。 丁寧な手続きなのに、名前を呼ばれるたび肩が硬くなった。「朝霧さん」 律が隣で声をかけた。 私はバッグの持ち手を握り直し、律を見た。「無理なら、ここで帰れます」「帰りません」
「きつく見えますか」「きついです。でも、これくらいでいいと思います」 その答えなら、受け取れた。 怒っている。 そうだ。私は怒っている。 怖いだけではない。置かれた場所で笑うことを求められてきた分だけ、ちゃんと怒っている。 カーソルが、文末で点滅していた。「送ります」 送信ボタンを押す。 送信後、肩の力が一気に抜けた。 康生からの返信は、その日は来なかった。 代わりに、夕方までに九条康隆側の代理人から正式な受諾文が届いた。 面会場所は九条本邸の応接室。録音を認める。双方の代理人同席を認める。面会は一時間。書類への署名を求めない。 葵についての記述は、なかった。 その空白が、かえって重かった。「葵さんの名前が、一度も出てません」 私は受諾文を見たまま言った。「意図的でしょう」「隠してるんでしょうか」「隠してるのか、守ってるのか。今はまだ判断できません」「守る、ですか」 その言葉に、一瞬だけ引っかかった。 康生の声が、一瞬だけ頭をよぎった。「榊さん」 律は急かさず、私の次の言葉を待った。「もし九条家が、葵さんを守るためだと言って私を遠ざけたら、私は納得した方がいいんでしょうか」 律はすぐには答えず、机の上の紙を一度だけ見た。 窓の外で、庭師が剪定ばさみを閉じる音が小さく鳴った。「納得できないなら、納得したふりをしなくていい」「でも、本人の状態が悪かったら」「本人が会いたくないなら、会えません。体調で止められることもあるでしょう」 まだ会ったこともない葵さんの意思を、私は何も知らない。「私、急ぎすぎていますか」「少し」「やっぱり、そう見えますか」「でも、急ぐ理由は分かります」 その返事に、張っていた肩が下がった。 夜、私は自室で面会に持っていく資料を確認した。 守り袋そのものは持っていかない。代わりに、相良さんが撮影し
「必要な時だけ、お願いします」「その線は越えません」 律は短く答えた。 念を押したのは私なのに、その返事で少し落ち着いた。 その日の午後、相良さんが作成した返信文を確認していると、別の連絡が入った。 差出人は、九条康生。 榊グループの代表窓口に届いたものを、秘書室が転送してきたらしい。件名は丁寧だった。 ――朝霧栞様との面談について。 件名を見ただけで、読む手が止まった。「読む前に、一度休みませんか」 律が言った。「読みます」 私は画面を開いた。 文面は驚くほど柔らかかった。 九条康隆は高齢で、近年体調が安定していないこと。突然の情報に動揺しており、本人の発言には誤解が含まれる可能性があること。朝霧栞には不安を与えたくないこと。 そして最後に、康生自身が一度会って説明したい、と書かれていた。 場所は都内のホテルラウンジ。 時間は今日の夕方。 同席者は不要。 読み終えるころには、迷いはなくなっていた。「分かりやすいですね」「応じますか」 律の声に、試す響きはなかった。 本当に、私の返事を聞いているだけだ。「行きません」 今度は迷わなかった。「九条康隆さんの状態を心配してる人が、同席者不要で今日の夕方に私を呼び出すのは、おかしいです」「同じ違和感があります」「それに……今会ったら、何を言うかまで誘導されそうです」 言いながら、葬儀の席で見た康生の顔を思い出す。 私を見て、葵と呼んだ男。 あの時の視線を思い出すと、もう一度画面を読むのさえためらわれた。 あの人の言葉は、いつも柔らかい。柔らかいからこそ、どこまで沈むのか分からない。「返信します」「返信自体は、相良に任せられます」「いえ。文面は見てもらいます。でも、最初の言葉は私が書きます」 私はノートパソコンを開いた。 指は何度か、キーの上で止まった。
その紙を見た瞬間、私は九条家という名前が、もう遠くの家ではなくなったことを知った。 九条康隆からの手紙は、机の上に置かれたままだった。 便箋の端には九条家の紋が薄く刷られている。守り袋より細く、葬儀の供花札より古い意匠だった。 「今日中に返事を出す必要はありません」 律はそう言った。 「急いでは決めません」 「でも、黙っているつもりもありません」 言葉が少し強くなった。 律は何も言わなかった。ただ、私が続けるのを待っている。 「知らないままにしておくと、また誰かが、知らないところで私の話を進めます」 如月家で何度もそうだった。最後に知らされるのは、いつも私だった。 「会います」 「場所は、九条本邸なんですよね」 「先方は、そう希望しています」 「なら、入口から帰るまで、榊側の人にいてほしいです。途中で一人になるのは嫌です」 「分かりました」 口にすると、便箋の端を押さえる指に力が入った。 「ただし、条件を付けます」 律の目元が緩んだように見えた。 「条件を聞かせてください」 「九条家の人だけの部屋では会いません。榊側と九条側、両方の代理人を入れてください」 言いながら、指が便箋の角を押した。 「録音は最初から。面会は一時間くらい。あと、書類を出されても、その場では書きません」 言い切るまで、律は一度も遮らなかった。 「それと」 「続けてください」 「葵さんのことを、私にだけ先に見せるような真似はしないでください」 律の視線が、静かに私へ戻る。 「意味を確認しても?」 「母かもしれない人を、証拠として突き出されたくありません」 最後の部分だけ、声が続きにくかった。 言い終えると、しばらく次の言葉が出なかった。 まだ会ってもいない人のために、何を怒っているのだろうと思う。けれど、怒りの形だけははっきりしていた。 律はゆっくり頷いた。 「その条件で、相良に文面を作らせます」 「榊さんは」
「血がつながってるかもしれない。それだけで、九条の人間ってことにはならないでしょう」 「でも、向こうはそう思わないかもしれない」 「その可能性はあります」 「九条家も、私をどう扱うか勝手に決めるんでしょうか」 自分の声が少し低くなった。 律は否定しなかった。すぐに綺麗な言葉をかぶせることもしなかった。 冷めた湯呑みを見ていると、そこに誰の手も戻らないことだけが分かった。 「決めようとする人間はいるでしょう」 「……正直ですね」 「誤魔化す方が失礼です」 私は守り袋を手に取った。 軽い。 こんなに軽い布の中に、どうして二十四年分のことが詰め込まれているのだろう。 「怖いです」 言葉は、考えるより先に出た。 律は手を伸ばさず、私の返事を待った。 律が手を伸ばしてこないことが、今は何より助かった。 「……今日は、そのままでいいんじゃないですか」 「保留にしたら、向こうが勝手に動きませんか」 「動きます」 「じゃあ」 「調べるところは調べます」 律は机の上の資料を整えた。 「会うかどうかは、また別の話でしょう」 「血縁を確かめる検査という方法もあります」 鑑定という言葉で、机の上の書類が急に近く見えた。 「DNA鑑定ですか」 「いずれ必要になる可能性はあります。ただ、今すぐじゃない」 「私の身体まで、証拠になるんですね」 言い終えて、自分が資料の一部にされる感覚に気づいた。 売られた子。取引された赤ん坊。今度は、血を調べられる人間。 書類に名前を書かれるたび、自分が人ではなく資料になっていく気がした。 律は少し考えてから、口を開いた。 「DNAは、あなたが同意しない限りやりません」 そこで一度、言葉を切った。 「検査を受けても、受けなくても、私はあなたにここにいてほしい。九条の名前が分かる前から、そう思っています」 資料ではなく私を見て、律は言った。答えなければと思うのに、胸がいっぱいになる。私は彼の袖口に触れて、小さく頷いた。 彼の袖から手を離し、守り袋を机に戻した。胸に残った言葉を、今は誰にも説明したくなかった。 その時、扉が控えめに叩かれた。 「失礼いたします」 相良さんが入ってくる。手には、白い封筒があった。榊家の郵便受けに直接届けられたものではな
あの頃の私は、少なくとも自分がどこに立っているかだけは分かっていた。 今は、立っている床の下から別の名前が出てくる。 「康生さんは、葬儀で私を見てました」 「見ていました」 「私を、葵さんと呼びました」 「口の動きだけでしたが、そう見えました」 「榊さんも、そう見えたんですね」 「私にも、そう読めました」 同じものを見た人がいた。その確認だけで、少し息が戻った。 私は資料から顔を上げた。 「九条葵さんは、康生さんの何ですか」 律は資料から目を上げた。 「康生の妹です」 「妹」という言葉を、すぐには受け止められなかった。 妹。 母かもしれない人が、康生の妹。 その響きだけで、葬儀の席で見た康生の目が戻ってくる。静かな、ほとんど表情のない目。こちらを人ではなく、何かの位置として見ていた目。 「葵さんは、今どこにいるんですか」 「療養施設にいるという情報があります」 「会えますか」 会えるか、と聞いただけなのに、声が急いだ。 会いたい、とは言っていない。ただ、会えるかと聞いただけだ。それなのに、胸の中のどこかが勝手に身を乗り出している。 律はすぐには返さなかった。 「確認は必要です。九条家の許可、施設側の面会基準、本人の状態。どれも飛ばせません」 「ですよね」 自分で答えて、書類へ視線を落とす。 飛ばせない。 それは正しい。正しいことなのに、こんな時だけ、正しさがひどく遅く感じる。 「朝霧さん」 呼ばれて、私は顔を上げた。 律は、登記資料の上へもう一枚だけ紙を置いた。九条家の家系図ではない。雑誌記事でもない。古い財団の年報のコピーだった。 「九条家の説明なら、できます。医療法人も投資会社も、康生の立場も」 「聞いた方がいいですか」 「……今、全部頭に入りますか」 私は資料を見たまま黙った。 「たぶん、無理です」 「では、一つずつにしましょう。私も、確かめながら話します」 その言葉は、思っていたより深く沈んだ。 知る。 簡単な言葉だ。 でも、知ってしまえば、知らなかった頃には戻れない。 私は三年前まで、自分を如月家の娘だと思って生きてきた。それからは、「偽物」という言葉が事実のように私の背中に貼りついた。今度は、九条家の誰かの子かもしれないと言われて
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ







